今回は足立区千住付近の戦跡を紹介したいと思います。千住は日光街道最初の宿場町に当たり、江戸と東北の中継地として栄えてきました。そのため、この辺りは吉原(現在の千束)などの歓楽街や花街が栄えていた他、「やっちゃ場」と呼ばれる青物市場や問屋街があり、店の主人が文人をお客に誘い、上野近辺に住む文人たちがこぞって千住に遊びに来ていました。
また作家の森鴎外も千住に居を構えていた時期があり、鴎外自筆の碑文が千住と本郷に残っています。
千住大橋 八紘一宇碑
▽千住大橋
この鋼タイドアーチ構造の橋は、昭和2年(1927年)12月12日に関東大震災後の震災復興事業の一環として建造された歴史ある橋です。また戦時中、付近ではB29搭乗員が憲兵隊によって処刑されています。
≪東京上野憲兵隊事件≫1945/5/26-28(GHQ報告書1139号 再審記録306号)
千住大橋は、東京上野憲兵隊事件(または千住大橋事件)の舞台となっています。昭和20(1945)年5月25日夜から26日明朝にかけて、470機のB29によって東京に大規模な空襲が加えられました(死者3651名。焼失16万6千戸)。この時、B29・1機が足立区入谷町に墜落、搭乗員11名のうち2名が墜落死、8名が捕虜になりました。
捕虜のうちの1名が脱走し、捜索中の警防団員2名を拳銃で殺害。後に西新井駅の貨車に隠れているところを発見され、東京憲兵隊上野分隊に引き渡されました。その後、「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」ということで、千住大橋付近にて脱走米兵が処刑されました。
そして敗戦後、関係者は自決するか、或いは戦犯として投獄されました。戦争に付随する誠に陰惨な一幕でした。
詳しくは、POW研究会さまのウェブサイトを参照
http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html#07
▽橋の袂の八紘一宇碑
千住大橋の袂には橋戸稲荷があります。水害の多い橋戸耕地一帯の豊作を祈願して建てられました。
▽橋戸稲荷神社
千住空襲の際、周囲の防火樹林のおかげで奇跡的に消失を免れました。
▽伊豆長八作鏝絵の描かれた神社本殿(足立区登録有形文化財)
東京都下でも非常に珍しい土蔵造りの神殿で、極めて貴重です。
源長寺及び慈眼寺の被災樹木
▽勝林院源長寺
▽大欅の残骸
空襲時の火災のすさまじさを感じさせます。
▽妙智院慈眼寺
▽被災樹木のイチョウ
▽本堂は本来この位置にありましたが、空襲で焼失
正和3(1314)年からの古い本堂は、4月19日の空襲による火災で焼失してしまいました。現在の本堂とは向きが違います。イチョウと山門、敷石だけが残りました。
B29無名兵士の墓
▽境内にある「B29無名兵士の墓」
鳩が象られた慰霊碑
この碑は、足立区花畑に墜落したB29搭乗員を祀ったものです。『まぶたの母』などで知られる劇作家の長谷川伸らが中心となって建立されました。
▽発起人や金銭を寄付した人々の名前が残っています
この他に、「縛り絵」などの明治の風俗画を描いた伊藤晴雨も協力しています。
▽反対側
▽伊藤晴雨翁の扇情的な縛り絵
▽B29慰霊碑を紹介したパンフレット(伊藤晴雨作)
元々あったこの塚が慈眼寺の境内に移され、記念碑が建てられました。
▽今回ご案内頂いた、郷土史家の相川勤之助氏と慈眼寺山門
生まれも育ちも千住という、生粋の江戸っ子の方です。
内田家土蔵
▽千住空襲で焼け残った土蔵(空襲直後に撮られたもの)
古写真右側の蔵が、近世経済学の権威、京都大学の内田銀蔵先生の生家にある土蔵です。
▽千住空襲で焼け残った二棟の土蔵(現在の様子)
(手前の蔵が古写真右側)。奥の土蔵の屋根は先の東日本大震災で剥がれ落ちてしまい、ガルバリウム鋼板のものに葺き替えられました。
<<相川氏の空襲体験>> 昭和12年生まれ
昭和18年、千住に住んでいた私たち家族の自宅は、建物の間引き疎開の対象になり解体されてしまいました。父と姉と私の家族三人にそんな大きな家はいらないだろうという理由でした。三戸に一戸の割合で撤去され、お稲荷さんもつぶして、銀杏の大木までも伐採してしまったのです。仕方なく私たち家族は長屋の一件に居を構えました。
昭和19年5月、私の姉は学童疎開で地方に行きましたが、昭和20年の3月には帰ってきました。私も縁故疎開で埼玉県の草加市に疎開していました。それほど遠くないので、疎開と言っても実家と疎開先の間を頻繁に行き来していました。或る時、父親が迎えにきて、私がたまたま一日だけ疎開先を離れた夜、疎開先の集落付近にB29が焼夷弾を投下。そのうち4、5発が疎開先の母屋の屋根を突き抜け、土間の臼などに落ちました。そのほか、庭にも3発刺さりましたが、幸いなことにいずれも不発でした。いつも寝ている部屋にも焼夷弾が落ちており、もし家にいたらどうなっていたかゾッとします。あくる日に疎開先に戻ると、隣家は焼夷弾で焼失しており、風景が一変していました。同じ日に西新井にも焼夷弾が落ちており、B29が不要物を捨てたのか、何故こんなところに焼夷弾を投下したのか今をもっても謎です。
私たちは食糧に不自由していました。北千住から東武電車で新田まで行き、食べ物をもらいに行きました。電車も途中で停まるので、なかなか目的地に着きません。買い出し部隊の中には満員の汽車から落ちて亡くなった人もいます。
昭和20年、当時8歳だった私は千住国民学校に通っていました。3月10日の東京大空襲は夜中でしたが、私は寝ていたので全然気づきませんでした。この日は、本所や深川などが目標になり文字通り焼け野原にされてしまいました。あくる朝(3/11)、日光街道沿いを北に向かってぞろぞろと歩いていく人々の群れに出くわしびっくりしました。皆、はだしだったりボロボロの服を着ていたりと、それはそれは惨めな姿でした。千住の人々は水を持ってきたり、衣服を渡したり、被災者の手助けに奔走していました。ふと荒川を見ると黒い丸太のようなものがいくつも浮いているのが見えました。しかしよく見ると、それは空襲で焼き殺された人の死体が浮かんでいるものでした。しばらくすると、トラックで兵隊さんが来て死体を引き上げてトラックに積んでいきました。
▽戦前の千住の様子
4月12日、大人たちがしきりに話し込んでいるのを見かけました。「ローズベルトが死んだらしいぞ。もしかしたら今夜あたり空襲あんじゃねえのか」と話しているようです。私はしかし特段いつもと変わらぬ風に寝床に入りました。
▽昭和20年千住中町の防空演習の際に撮られた写真
幸いこの中で亡くなった方はいなかったようです。
4月13日、千住警察から警戒警報が発令。その後すぐに空襲警報に。私たち家族は防空壕に入り、手を組んで屈みました。入って間もなく、ブーンという飛行機の音が聞こえたかと思うと、近くで「ボーンッ!」という轟音がして焼夷弾が落ちました。あちこちで火の手が上がり、こちらにも火災が迫ってきます。班長の「逃げろー!!」という号令の下に皆が防空壕からわっと飛び出し、一目散に小学校へ向かいました。
しかし、途中で警防団の人が来て、「こっちへ来たらいかん」というので神社の脇を曲がって、日光街道(国道4号)を渡りました。途中、空を見ると焼夷弾がチラチラと火の雨のように降り注ぎ、それが地面に落ちると、まるで花火が地面で炸裂したように、パーッと強烈な光を放っています。上を見ると焼夷弾の筒が雨あられと降ってくるのが見えます。ジューっという音を立てて照明弾も落ちてきます。100メートルほど離れた公園に爆弾が落下し、「ダダーンッ!!!」という大轟音と共に炸裂。とっさに伏せました。その時は、学校で教わったように目と耳を塞いで口を開けました。また立ち上がって走り出し、常磐線のガードをくぐって関谷町まで逃れたところ、ガードの反対側は不思議なことに全然燃えていませんでした。その夜は空襲と火災が収まるまで、牛田駅近くの土管の中で過ごしました。
▽空襲後の千住付近
二棟並んでいる土蔵が、上で紹介した蔵です。
夜が明けて家に帰ることになりました。周りを見ると、高架の西側は丸焼けの焼け跡です。
焼け跡というのは、本当にもう何も残らないわけです。高熱で焼かれたため、楽器屋さんの楽器が原型を留めないほどに溶けていました。水道管からは破裂して噴き出しています。紙や木やトタンはすっかり焼き尽くされて灰になっていました。
さあ、家がまだあるかないか、と不安気に家路を歩いていくと、見慣れた欅の木の向こう側にポツンと我が家が見え、思わず「あった!!」と声がでました。良かったうちが焼けなくてすんだ、と安堵したものの、玄関をくぐると家の側壁がなく、まるで演劇のセットのようになっていました。そこは応急処置で戸板などで塞ぎました。この家には昭和30年まで住んでいました。
▽焼け残った相川氏宅
中央左の木の向こう側にある平屋がそうです。
ある戦争逃れの人の話を紹介しておきましょう。近所に壮年の男性(Bとする)で召集令状が来ないという人がいました。皆おかしいなあ、とっくに兵隊にとられていそうなものだがと不思議がっていましたが、班長は「こないなら黙ってろよ。きたらいけばいいんだからさ」と言っていました。昭和20年の4月ごろに、Bさんが本籍に用事があり尋ねていったところ、区役所が焼け落ちて、身元確認の書類などがことごとく焼けてしまっていました。Bさんは、「だからいかなくてすんだのか」と驚いていました。
昭和20年8月15日、終戦の詔勅。正午に天皇陛下から重大放送があるということで、近所の人々が皆集まってラジオに耳を傾けました。「これで戦争も終わりだ」という声が聞こえ、皆沈んだようになっていました。私はしかし、「ああ、これで今晩からぐっすり寝られるぞ」という気持ちでした。遠くの方でブーンという飛行機の音。見あげると雲一つない真っ青な空。ミーンミーンという蝉しぐれ。これが私の終戦の日の記憶です。
さて、何故あれだけの人間が空襲で死んだのでしょう。もちろん、アメリカ軍が日本の家屋を徹底的に研究して、焼夷弾を使用したという事、また効果的に人を殺すような爆撃を実施した事は周知の事実ですが、このほかに、「防空法」という悪法の存在があります。これは、空襲時に決められた持ち場を離れると罰せられるというもので、火が迫って来て逃げようと思っても、この法律のせいで逃げられなくなるのです。そこから逃げた場合は、単に罰せられるだけでなく、周りの人たちから「非国民」という誹りをうけることになります。この法律のせいで一体どれだけの人々が無駄に殺されたことか。本当は死ななくてもよい人が死んだのか。日露戦争に従軍したうちの祖父は、このような政府の現実離れした政策についてこう言っていました、「今の政治家は戦争を知っているのか」と。結局、バカな指導層のツケを払い、犠牲になるのは国民なんです。
▽足立支談会が主催して開催された戦跡展
千住地域は一部を除きほぼ焼失。農地の多かった地域でも多数被害を受け、約1万8,000戸以上が焼失し、約6万5,000人以上の区民が罹災しました。
足立区の戦争体験者の証言集です。
戦後70年 足立、戦争の記憶
http://www.city.adachi.tokyo.jp/miryoku/shiru/sengo70.html
また、防空法が如何に馬鹿げたものであったかについては、以下を参照ください。
大前 治「『空襲から絶対逃げるな』トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52580
桐生悠々「関東防空大演習を嗤う」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html
千住神社防空壕
▽参道沿いの街並み
付近には下町の雰囲気が残っています。
▽千住神社
▽日露戦争記念碑
逆光ですみません
▽八紘一宇国旗掲揚台
▽境内にある防空壕
空襲時にこの壕に逃げ込んだ人たちは、これでは一溜りもないということで、すぐに壕をでて助かりました。実際、とても実用に耐えうるようなものではありません。
▽内部の様子
とても狭い
▽末社(火伏三社)
昭和6年1月建立。4月20日の空襲でこの社殿だけが唯一焼け残りました。そのため防火に縁があるということで、三社御祭それぞれの御神徳のほか、火除け防火の神としての御神威もあり崇敬されています。ありがたやありがたや。
▽境内の被災樹木
さて、相川氏の金言「戦争で犠牲になるのは国民」「防空法で余計な死人がでた」について、これはぜひ皆さまに知ってほしいと思います。昨今のミサイル騒動でもミサイル退避訓練などと称して、馬鹿げた訓練が行われていますが、こういうものが如何に無意味で、しかも徒に国民を危険にさらすことになるのか、改めて考えて頂きたいと思います。自分の身は結局自分で守るしかないでしょう。
ご協力いただきました、慈眼寺様、相川様、誠にありがとうございました。
<<参考文献>>
・足立区教育委員会足立史談編集局編『足立史談』