第十七師団 歩兵第四〇聯隊 歩兵第五三聯隊 村上輝夫上等兵
大正九年 鳥取県生まれ
戦地:ニューブリテン島ツルブ、オーストラリア:カウラ収容所
戦場体験放映会さま主催の戦場体験者と出会える茶話会in大阪&戦場体験キャラバン展にて講演、インタビューさせていただきました。(H29.10.08)
▽ニューブリテン島要図
▽カウラ収容所にいた時の話をしてくださる村上氏
<<招集>>
私は徴兵検査で第二乙合格であった。その為、昭和十五年十二月、招集後即日帰郷になった。昭和十七年六月、二度目の招集。郷里の鳥取にある歩兵第四〇聯隊第五中隊に入営。三ヵ月の初年兵教育をうけた。訓練では鳥取砂丘の浜辺を10キロ往復で何度も走った。岡山の三年兵に厳しくしごかれ、手が上がらないほど散々に殴られた。
▽二十二歳の村上氏
一回目の入営時(昭和十五年)に撮影。鳥取聯隊中隊兵舎前にて。
汽車で下関へ、門司から釜山に上陸し、鉄道で北京→南京→徐州へ。徐州から西にある泰山駅のひとつ手前の洪溝駅付近で鉄道警備に従事。周辺では梨や落花生がたくさん作られていた。駅などでも落花生を売っており、駅舎の上にあった哨所で落花生を食べながら見張りをしたのを思い出す。哨所は一時間交代であった。匪賊の討伐にも参加したことはあるが、みたことはなかった。
詳しい月日は覚えていないが、昭和十八年に上海まで移動。上海にて3か月滞在。残念ながら、兵舎から出られなかったので、上海の街は見物できなかった。その後、呉淞まで徒歩で移動し、桟橋から船でトラック島へ向かった。輸送船といってもひどいもので、蚕棚みたいな段々に寝台が組まれていだけで、空調などはもちろんない。トラック島では、船の上から大和と武蔵を見た。
船上で一晩過ごした後、海軍の駆逐艦に乗り換えてトラック島を出発し、ラバウルに上陸。ラバウルは最前線基地ではあったが、平穏そのものだった。その後、トラックや舟艇に乗り換え、ナタモを経て一週間歩いて最西端のツブルに到着。師団司令部はガブにあった。ここでは飛行場の警備に従事。マラリアに罹り、野戦病院に入院。40度以上の高熱が三日続き、少しましなったなと思うと、しばらくしてまた再発するというのが続き、完治するまで天幕暮らしが続いた。
昭和十八年十二月二十六日、米軍ツルブ上陸。ツルブは玉砕したが、私は入院中であったので戦闘に参加することができなかった。聯隊は壊滅。傷病兵はラバウルまで撤退するよう師団命令が出たので、動ける兵隊はラバウルに撤退。病人は、一日に一キロぐらいしか進めない。食べ物にしても、野性のバナナや農園のタロイモなどの食べられそうなものは、先発の元気な兵隊たちがすべて食べつくしていたので、碌に食べるものがなかった。仕方がないので、海辺でヤドカリを拾って食べたり、ジャングル野菜などで飢えをしのぐ。トカゲや蛇がいれば、ごちそうだった。野戦病院に残置された者も多く、途中で落伍者が大勢出た。病人が食料や介添もなく、敵弾が降る中をラバウルまで行けるはずがなかった。
▽昭和十八年十二月二十六日、グロスター岬(Cape Gloucester)に上陸する連合軍
LSTから飛び降り、浜辺に殺到してくる。
グロスター岬の戦闘では、連合軍に約1400名(うち戦死300)の死傷者、日本側に約2000名の戦死者がでた。
▽グロスター岬付近の米軍
日本兵の轢死体を眺める米軍兵士
漸く30キロ離れたナタモに辿り着くも、十二月二十六日に敵が上陸した後であり、基地は既に敵に占領されていた。同行していた兵隊で、まだ歩ける者が三名ほどいたが、様子を見に行って敵に発見されるや即座に射殺された。そのほか私たちのほとんどは栄養不足で倒れていたので、どうにも出来ずに米兵に拘束された。
<<捕虜になりオーストラリアへ>>
私らはトラックに収容され、上陸用舟艇でトラックごと小さな島に上陸した。テントに寝かされて、砂糖入りのご飯(オートミール?)が出されたが、弱っていて食べることができなかった。そこで体力回復までの幾日かを過ごした後、船でモレスビーに移送された。ポートモレスビーの収容所で三ヵ月滞在した後、ポートモレスビーの飛行場から輸送機でブリスベンまで飛ぶ。この飛行機が貨物輸送機だったので、座席などがなく、皆して壁を背にして向かい合って座った。ブリスベンの収容所では、世話係の兵隊がいて、言う事をきかんと飯を食わさんという。その後、昭和十九年五月頃にトラックでカウラに移された。
<<カウラ第12戦争捕虜収容所での暮らし>>
カウラ収容所での暮らしは、ニューブリテン島に比べると天国のようで、作業なども命じられず、朝晩の点呼以外は自由時間であった。すでに先に入所しているものがおり、その連中は捕虜なのに元気そうだった。煙草が一日5本分支給されていたので、それを通過代わりに麻雀や花札などの賭博を色々やった。特に麻雀は、時間がかかるので暇つぶしに好まれた。雀牌は、器用なものが洗面所のコンクリートなどを削りとって、それを火箸で削って作った。食べるものも、パンと羊肉が支給されていたが、連合軍から材料が支給されるので炊事をした。魚が欲しい、というと魚を取り寄せてくれたり、至れり尽くせりだった。そのほか、畑でスイカやメロンを作っていた。私は飲まなかったが、どぶろくをつくって床下にしまっている者もいた。食糧は豊富にあった。残飯が出るほどだ。
▽昭和十九年七月一日(事件の四週間前)に撮影されたカウラ収容所
捕虜が野球に興じている。この写真は、連合軍が日本軍への宣撫工作に用いるために撮影されたもの。
収容所では階級章がないので、皆「~さん」と呼び合う。最初はわからないが、徐々に階級が判明してくるが、軍隊生活のように縛られることはなかった。野球のバットやマンドリン、ギターなどを自作し、班対抗の野球大会が行われたり、園芸大会などをやった。
イタリア兵捕虜なども収容されていたが、直接接触することはなかったが、夜半にイタリア兵側からは音楽や歌声が聞こえてきて楽しそうだった。
服装は、オーストラリア兵の軍服が夏冬支給された。純毛で、赤い染料でブドウ色に染められていた。
▽カウラ収容所平面図
村上氏らはB地区に収容されていた。
▽村上氏らは「ハット」と呼ばれる小屋に一班20~30人単位で収容された。
<<死ぬための脱走>>
昭和十九年八月はじめに、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーしたために、将校・下士官を除く兵士を、400km西のヘイ(Hay)の捕虜収容所に移すことを計画。八月四日、移送計画が日本人捕虜全員に通達された。それを不服とする連中が談合し、脱走をやろうということになった。便所紙に〇✖を書いて多数決をとったが、気の進まないものも〇を書いたようだ。千人ばかり収容されていたが、私の班は大人しい人ばかりだった。いずれにせよ、東条英機の戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」が常に頭の中にあり、皆日本には生きては帰れないと思っていたので、死に場所を求めていた。死ぬつもりだった。
八月五日の夜、豊中さんの突撃ラッパを合図に、暖炉の火でハットに放火し、皆で柵を壊して、ブロードウェイ(中央道路)にでた。携行する武器は食事用のナイフや手製のバットなど。照明弾が上がり昼のような明るさ。門のところまで走っていったが、門を越えることができず、更に監視塔からの十字砲火に晒されていたので、皆固まって、側溝の中に伏せた。夜明けまで隠れとおした。他班には首を吊った人もいたようだ。死者は235名で、そのうち4名がオーストラリア兵。日本兵に撲殺、殴殺されたものと思われる。ほとんど逃げられなかったが、一週間ぐらい逃げた人もいる。
▽フェンス際に横たわる日本兵の遺体
<<復員から再度のカウラ訪問>>
我々生き残りはその後、ハットが焼けてしまったので、食堂に集められ数日間拘束された。そして終戦までヘイ収容所に入れられた。終戦後、昭和二十一年三月三日にシドニー港へ移送。そこから船で一か月かけて浦賀に上陸。復員列車で大阪の自宅に戻り、そこから鳥取に帰った。家では私が戦死扱いだったので、死んだものと思って葬式までやっていたが、不意に帰ってきたのでそれはそれは驚いていた。幽霊が帰ってきたんだと思われていた。
戦後、何度も慰霊のためにカウラを訪れた。市長から勲章をもらった。
▽慰霊に訪れた際のことを語る村上氏
▽カウラ市長から村上氏に授与された『オーストラリア軍従軍記章』
<<質疑応答>>
Q:なぜ反対するものがいなかったのか。
A:皆、捕虜になって恥ずかしいという気持ちがあった。どうせ日本には帰れないので、死に場
所を探していた。皆収容所に来た時から死ぬつもりだった。
Q:偽名を名乗っていたものがいたようだが。
A:私の記憶では、帰ってきた人の名前と当時の名簿が一緒なので、偽名の人は知る限りではい
なかったように思う。
村上氏は御年九十七歳でありますが、カウラ事件を風化させまいと、鳥取から大阪まで夜行バスで来ていただきました。また、各種メディアの取材にも応対し、各地で催される講演会にも精力的に参加しておられます。お体に気をつけて長生きしていただきたいと思います。
参考文献
○ニューブリテン島の戦闘
・小林 征之祐『ツルブからの手紙―若き一兵士から愛する息子へ 激戦の地から送られた軍事郵便
東部ニューギニア ニューブリテン島』新日本教育出版社、二〇〇七年。
・防衛庁防衛研修所戦史室編『南太平洋陸軍作戦〈4〉フィンシハーヘン・ツルブ・タロキナ (戦
史叢書) 』朝雲出版社、一九七二年。
・『追憶』http://www.eonet.ne.jp/~tuioku/index.html
○カウラ事件
・森木勝『カウラ出撃―生と死の軌跡 (太平洋戦争ノンフィクション) 』今日の話題社、一九七二
年。
・森木勝『暁の蜂起―豪州カウラ収容所 (南方捕虜叢書) 』国書刊行会、一九八二年。
・中野 不二男『カウラの突撃ラッパ――零戦パイロットはなぜ死んだか(青春文庫)』
文藝春秋
社、一九九一年。
・ハリー ゴードン (著), 山田 真美 (訳)『生きて虜囚の辱めを受けず―カウラ第十二戦争捕虜収容
所からの脱走』清流出版 、一九九五年。
森木勝氏著『カウラ出撃―生と死の軌跡 (太平洋戦争ノンフィクション) 』
村上様、放映会の皆様、誠にありがとうございました。
1. こういう研究会があったのですか。
京大で、宇宙総合学研究ユニットの特任教授をしています。ときおり京大にいっております。参考文献にある「カウラの突撃ラッパ」の著者でもあります。私の専門は衛星技術ですが、若いころには「カウラ事件」や「シドニー湾の甲標的」など、オーストラリアと日本軍の交戦について調べていました。
自宅は埼玉ですが、講義等々でときどき京大へいっております。お手伝いできることがあったら、ご連絡ください。