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京都大学戦争遺跡研究会(2018-)

戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りや、「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などです。現在、各地の教育委員会や郷土史家、戦友会、有志の方々などのご協力を頂いて「戦争遺跡アーカイブ」を作成中です。当会の活動としては、戦跡の調査研究のほか、戦争体験者からの聞き取り、会報の発行、一般向けフィールドワークの企画、11月祭での展示を主に行っております。本サイトでは我々の活動の一部を公開させて頂きます。ご質問ご意見はyuki0118(アットマーク)gmail.comまでお願いします。2015/16年以前のブログはこちら→http://senseki3.kyotolog.net/ 2017年のブログはこちら→http://senseki.kyotolog.net/ ツイッター @sensenki3

呉軍港遺構2 工官集会所/ コンクリート船/ 宮原防空壕ほか

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呉軍港遺構2 工官集会所/ コンクリート船/ 宮原防空壕ほか

広島に用事があり丸一日時間ができたので、兼ねてより訪れたいと思っていた倉橋島に行くことになった。時刻は朝八時、駅前のレンタカーにて一日500円でママチャリを借りた。大和ミュージアムなどでも自転車を貸し出しており、そちらにはロードバイクなどもあるらしい。
 亀山橋を渡り、めがね橋交差点に差し掛かる。ここは呉鎮守府の第一門があった場所だ。この高架が海軍用地との境界である。

下士官兵集会所

▽閉鎖中の下士官兵集会所

いつだったか「保存のための署名を!」というリツイートが流れてきたので、我々も署名したが、あれはどうなったのだろうか。有志で金を出し合って買い受けるというのであれば、少しばかりなら出したいが。折角残っているのに取り壊すのは忍びない。

宮原防空壕

国道487号線を走っていると、市立宮原中学校の裏手の山の斜面に、戦時中のものと思しき防空壕跡がある。場所

▽壕口に爆風除けの防壁がある


▽いずれの壕口もコンクリートで塞がれていて浸入できない


▽戦後すぐの航空写真では四か所確認できます。

[USA-M280-108 撮影年月日1947/05/05(昭22)]

▽地下壕の通気孔

この畑の所有者によれば、一度、畑に大穴が開いてしまったことがあるそうで、もしかしたら地下壕も中で崩落してしまっているのでは、とのこと。


また、広島県呉市警固屋5丁目の辺りは一等巡洋艦「青葉」の終焉の地。今は埋め立てられ、少し内陸になっている。警固音戸バイパスの高架の下に慰霊碑がある。

▽巡洋艦青葉終焉之地碑文



▽487号線を脇道に入ったりしながら進んでいくと、第二音戸橋がみえてきた。奥が音戸橋。


橋を渡らず、渡船を利用する。第二音戸橋の橋桁を越えると、渡船乗り場がある。

▽音戸渡船


▽運賃表

自転車を載せるので150円だ。

▽すぐに船がやってきた。

乗るときに、船と浮橋の間が空いているのもいい加減なかんじで良い。

▽昔から地元の人間の足として活躍している。


対岸の倉橋島に上陸。ここはまだ呉市だ。

▽音戸町の街並み


▽黒猫三兄弟にであう。

とても人なれしている。実際に兄弟かどうかは分からない。

▽気分は岩合光昭

にゃーん


コンクリート製被曳航油槽船

ここから恵比寿神社の前を通り、音戸灯台の下を過ぎ、海沿いに進んでいく。
広島県呉市音戸町坪井3丁目の坪井漁港には戦時中のコンクリ―ト船があり、堤防として利用されている。これは、コンクリート製の被曳航油槽船で、石油などの燃料を輸送するために建造され、自走せずに他の船に曳かれて目的地まで移動した。

▽コンクリート船


▽給油口


▽船首部分



この船の名前なども調べてみたが、文献に記載などはない。地元の人に聞き込みをしたが、誰も知らなかった。

▽防波堤建設記念碑


▽文字は、うーん、風化していて全然読めない

これに経緯などが書いてあるはずだが。

▽付近にある「戦艦伊勢・日向浮揚解撤記念碑」

サルヴェージ会社が建てたものだ。
伊勢と日向は情島付近で大破着底し、終戦を迎えた。終戦後まもなくは被災者の方が住んでおられたようだ。

伊勢・日向ともに昭和28年に警固屋ドックにて解体。

▽写真奥に旧呉海軍工廠が見える。

戦艦「伊勢」「日向」はここから南の情島付近で終戦を迎えた。

広十一空廠 打田 勝彦 氏
「 昔日の光栄を担ってはいるものの、帝国海軍連合艦隊は油がないの
で動けなくなった。呉周辺の内海の島影には残存艦があちらに一隻こ
ちらに一隻、と松の木を擬装して、止まっていた。情島のそばに航空
戦艦「日向」がいた。
 ある晴れ上った暑い日に、この艦は米軍艦載機の餌食となった。何
十という飛行機が繰り返し攻撃するさまがよく見えた。
 「やられている!!」「やってる!!やっている!!」
 いくら攻撃されても「日向」は微動だにしないかに見えた。しかし、
実際はそこは修羅場だったのだ。第一波の攻撃でおびただしい死者と
負傷者がでてほとんど戦闘能力をなくしていた。救援要請で沢山の医
者と看護婦が便船でおくりこまれ救助活動が始まった直後、第二派の
攻撃を受け、救助におもむいた人たちを含めて、多くの兵隊が死んで
ゆき「日向」自身もすでに沈んでいたのだが、浅瀬にいたので遠くか
らは厳然と不動の姿に見えたのだった。(一部抜粋)」
(呉戦災を記録する会(編)『黒い盆地』 「呉市民の戦災応募体験記と資料より」)


呉軍港遺構3に続く
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