大島 満吉 さん 昭和10(1935)年生まれ 群馬県出身
▽葛根廟事件について語る大島さん(当時国民学校4年生)
2017年11月24日(金)の戦争体験者と出会える茶話会にてお話を伺いました。
関係者の皆様、誠にありがとうございました。
また、大島様には当研究会の会報にも体験談を寄稿していただきました。
誠にありがとうございました。
<<満州国へ>>
父は建築関係の仕事をしており、昭和十年に渡満。私は三歳で満州国の興安南省の首都興安街(別名王爺廟)へ。興安の東西南北全省の面積を足すと、大体日本全土の国土面積と同じくらいだ。また、興安はこの辺りの中心地であったので、憲兵隊や軍管学校など、軍関係施設が軒を連ねていた。興安の人口は約三万人で、日本人は三千人。内蒙に近く、治安も良かった。表向きは蒙古人の長がいたが、裏で実権を握っていたのは、日本時の白浜参与官であった。両親と兄と私と弟と妹の6人暮らし。昭和二十年、九歳の私は興安の国民学校4年生だった。
<<ソ連参戦と興安街脱出>>
8月11日、ソ連対日参戦により空が黒くなるほどのソ連機が襲来。市民は興安街を盤石の守りだと思っていたが、為す術もなく爆弾を落とされ、町が破壊された。私たちは急いで防空壕へ逃げ、身を潜めていた。家の窓ガラスが割れ、泥が家の中に入っていた。
その後、行政勧告で十八時までに所定の位置に集合せよという通知が。父は召集令状がきて、奉公隊として役所に出頭。母たちとリヤカーに家財道具を積んで急いで出発。私と兄がリヤカーを引くことに。高綱隊1700名、浅野隊1200名(隊長:興安総省参事官浅野良三)で分散して非難することに。18時になっても半分も来ていない。当初の計画では、行政側と陸軍側で綿密な打ち合わせが行われており、興安から百キロ離れたチチハル北方のジャライトキへ、軍の護衛の下で非難する予定だったが、陸軍部隊は全て8月10日以降ソ連軍の迎撃に出向いており、一人も町には残っていなかった。仕方なく、民間人だけの移動となったが、まずは高綱隊が先発として列車にて南下した。その後、浅野隊も準備を整え、列車を待つが一向に来ない。それもそのはずで、終点のアルシャンの町が既にソ連軍の手中にあったため、列車が出なかったのだ。前の日にアルシャンから逃げてきた避難民は、陸軍による護衛を当てにして、興安で下車したが、もぬけの殻の市街を目にして途方に暮れていた。アルシャンの避難民や興安近郊の住民も駅頭に集まり、興安駅は大混乱であった。
同級生たちの話をすれば、Y教頭先生の家族が7人家族であったが、教頭先生も召集されたため、母親が幼い子供五人を連れて避難することになった。Tさんの家族は我が家と同じ家族構成で、兄弟皆同級であった。ここも同様に父が応召されていた。Tさん一家は、本来高綱隊で既に先発しているはずであったが、役所から父親が戻ってくるという連絡を受け、一度列車に乗ったものの父親を待つために次発列車に乗ることに決めたのだった。結局、このような近隣の住民や高綱隊の残留者を含め、浅野隊は最終的に1300人近くになった。
浅野隊長は、避難民が列車なしではとてもジャライトキまでいかれないので、日本人の高僧のいるラマ教寺院の葛根廟(興安から南東約40キロメートル)に一時避難し、そこから白阿線で白城子まで移動することを決定。寺院側とも話がつき、出発することに。関東軍が自動車や馬車など全て挑発していたので、近所の人が荷物を載せてくださいと頼みに来て、荷物を載せてあげた。その結果、荷物の持ち主が私たち兄弟の代わりにリアカーを曳いて行ってくれることになり、私たちはリアカー引きの苦役から解放されたので、ほとんど手ぶらで葛根廟へ向かった。
▽満州国領内に侵攻するソ連軍
<<葛根廟事件>>
8月11日、12日と私たち兄弟は子供だったので逼迫した感覚は全然なく、まるでハイキング気分で歩いた。チビというペットの犬がおり、一緒に興安を脱出した。家族皆でよしよしと可愛がっていた。
13日、チビの様子がおかしく、元気がない。そして何やら悲しい顔をしている。チビについていくと、なんと草むらの中にたくさん赤ちゃんを産んでいたのである。草原の真ん中であったので、箱などもなく、かといって貴重な荷物でいっぱいのカバンなどに入れるわけにもいかず、仕方なく置いていくことになった。チビは私たちが行くことを知ってキャンキャン吠えて追いかけてくる。しかし赤ちゃんをほおっておけないので、温めてから、またしばらくすると走ってきて「行かないで」と鳴く。私たちは仕方なくチビを置いてきた。私たち兄弟、泣きに泣いた。
母の言葉が忘れられない。
「なんてかわいそうなことになっちまったんだろうね。どんな動物も我が子がかわいいんだね。」
14日、ソ連軍興安浸入の急報。これは急がねばならないということで、朝6時に野営地を出発。妹を連れた母と私と弟は荷物がなかったので、どんどん先頭を進んでいた。荷物の重量や歩行速度の違いから、興安を出た当初は整然としていた隊列も三キロ近くに伸びていた。葛根廟の塀が見えるほどに近づいたところで休憩になった。ここで休憩して伸びた隊列を整理し直すようだった。
一息入れようとしたところ、突然、葛根廟丘陵の稜線に戦車がずらりと姿を現した。「戦車だ!逃げろ!!!」の声。皆、必死に逃げようとするが、ここは平原なので逃げるところがない。ソ連軍戦車隊が忽ち轟音を挙げて避難民の列に突進してきて、戦車砲とキャタピラで殺戮を始めた。小さい子を何人も抱えた母親は逃げようがない。大勢が轢き殺された。私たちは兎に角走りに走って、二百メートルぐらい走ったところに壕があってそこに飛び込んだ。そして勢い余って、壕の反対側に取り付いてしまった。これでは敵の射撃を食らうと助からないが、動くと撃たれるので身動きができない。下手にも大勢固まっていて、敵の死角になる位置にじっとしていた。あちらへ行けばよかったと思うも、時すでに遅し。30分か1時間ほど戦車隊が平原を走り回って、避難民を徹底的に殺傷。キャタピラの重々しい金属音とエンジンをふかした時のグオオオという音に混じり、断末魔の叫び声。忘れられない。
▽ソ連軍のT34-85戦車
静かになったが、しばらく動けなかった。やがて左手から3人の兵隊が歩いてきた。私は日本軍が応援に来てくれたと思い、その兵隊たちに微笑みかけた。しかしそれはよく見るとソ連兵であった。母が私の頭を押さえて隠したが、ソ連兵に見つかってしまった。彼らは武器を持たない我々を無害だとみなしたのか、私たちの横を素通りし、下方に固まっていた30名前後の集団に目を付けた。確かに在郷軍人会の人が自衛用に小銃や軍刀を持っていたが、9割以上は婦女子だ。しかもこちらは浅野隊長が白旗を挙げて降伏の意志を示していた。しかしソ連兵はそれらを脅威だと感じ一斉射撃を始めた。突然、後方でもの凄い発砲音。ババババッというマンドリン銃の音と薬莢の焦げ臭い匂い。ブスリブスリと人間の身体に弾丸の刺さる音と殺される人の悲鳴。ソ連兵が行ってしまった後も、私たちは動くことができなかった。それから一時間、二時間たち、辺り一帯に号砲が鳴り響いた。すると虐殺を続けていた戦車隊の音が遠ざかっていった。
▽『葛根廟事件 遭難の絵図』(天恩山五百羅漢寺蔵)
気が付くと、辺りはシンとなって、壕内、平原どこをみても生きている人がいない。皆、傷つくか死んでいるかという有様。兄も父も見当たらず、死んでしまったのだろうと思って、遺体を探した。死にきれない人もおり、しきりに「水を下さい」というので、母が水たまりまで行って、それを掬って飲ませてあげた。水たまりには血まみれの人が倒れていた。夕方ごろまで何度も死体の列を往復して父と兄を探したが、とうとう見つからなかった。そこで、壕をでて、粟畑で一時間ほど休んでいると、母が「もう一回降りよう」と言った。そして、私に「どうしようかねえ」と尋ねてきた。私は、興安街も敵に占領されて、葛根廟もだめなのだから、もうどうしようもないと思い、また同じく途方に暮れていた。どこそこへ行けば食糧があるとか、友軍がいるとかいう目安が何もないのだ。周囲がソ連軍に包囲されていることは明らかだった。母はまた、「どうしようかねえ」と誰ともなく尋ねたが、これはつまり「もう死ぬしかないのだ」という意味であった。
<<途方に暮れる生存者>>
下方に降りていくと、生存者が四十名ほどおり、指揮官を中心に集まっていた。しかしそこに父と兄はいなかった。半時間ほどするとまた別の人が来て、「手当をしてあげてください」というが、もう治療の仕様がない。結局、行政側も万策尽きて、指揮官の人が「これ以上行政は指導できないから、これからは自由行動です」と言った後、更に続けて「どうにもならない方は最後まで自決の幇助をします」と言った。また「小さい子については、母親が始末してください」とも付け加えた。
母は覚悟して、三歳のみつこを草むらに寝かせ、死んだ在郷軍人の持っていた刀で殺そうとした。しかし、まだその人には息があって、眼をカッと見開き、「奥さん、はやまっちゃいけない。生きなさい、生きるんです」と訴えた。母はしかし、もう考えに考えた尽くした上の事であったので、最早どうにもならず、最後に「みっちゃん、ごめんね」と言って、刀をみつこの首にあてがい...
私は思わず、二歩、三歩後ずさった。弟は六歳、私は九歳だったので、母ではなく在郷軍人会の人に幇助してもらうため、その列に並んだ。Hくんの家の妹が足を撃たれ、「痛いよお、死にたくないよお」と悲痛に訴える。抱きかかえ、介抱するが、最早どうにもならない。結局、Hくんの母が我が娘の首を絞め、絞め殺した。しかし、その後Hくんの妹は蘇生し、結局また気の毒に苦しんだ後に亡くなった。やがてすると、K校長の小学五年生の長女が弟たち3人をつれてやってきた。この姉弟はうちと同じ兄弟構成で皆同じ学年だった。Yちゃんは「おばちゃん、私どうしたらいいか分かんない」と訴えたが、母もみつこを始末した後であり、何もいう事ができなかった。このK校長の子供たちと一緒に、わたしたち兄弟は自決するための列の最後尾に並んだ。
やがて、日本人が死んでいるということを聞きつけた物盗りが大勢やってきて、周囲を物色し始めた。壕の中に入ったりして、日本人の着ているモノや荷物をはぎとって、荷車や籠にそれらを集めていた。
大分暗くなってきた時、Yちゃんが突然「晩餐会をやろう!」と言い出した。私はこれから死ぬのに、とあまり気乗りではなかったが、皆で角砂糖やそうめんなどを持ち寄ってきた。Yちゃんがはやし立てるので、「どうせ死ぬのにこんなもの食べても意味がない」と思いつつも、生でそうめんをかじった。前方で役場の人が自決を手伝っている。最初は銃でやっていたが、それだと音でソ連軍にバレるということで、刀で次々と殺していた。重傷で死にたい人はすぐに死ねたが、健康な人は刀の刃が入った時に飛び上がったり、叫んだり、もがき苦しんでなかなか死ねない。待つ身としてはいい気分ではない。遅々として列は進まず、やる方もだいぶ疲れてきたようで、残り15人ぐらいになった時に、「我々も一休みさせてくれ」と休憩に行ってしまった。彼らはぷかぷかと煙草をふかしていたが、待たされる身であるこちらは、たまったものではない。かえって苦しい時間が長引いてしまった。
夜11時ごろ、待ちぼうけを食らわされていると、物盗りが二人こちらに近づいてきた。何だ、と思い身構えると、それは見知った顔だった。何と父と兄が生きていたのだ。父と兄は警護任務で最後尾にいたので、粟畑に飛び込んで助かったそうだ。列の真ん中あたりにいた人は皆やられてしまった。その後、向こうも私たちを探していたのだが、私たちが溝に隠れたり、父や兄を探しに出ていったり、また畑で休んだりしているうちに、丁度入れ違いになってしまい、出会うことができなかったのだ。脱出する前に、念のためにと列を確認したところで私たちを見つけたのだった。
父は「逃げるんだ」と母に言うが、母は「みつこが死んだところで私も死ぬ」と言って聞かない。「そもそも、逃げるといってもどこに逃げるの。行くところもないし、みつこはどうするの。」「済んだことは仕方がない。」と二人の間で押し問答が続いた挙句に、父は母を連れてその場を離れた。私たち兄弟もそれに続いた。そして斜面を登ろうとしたが、どういう訳か足がすくんで中々上へ登れない。今となっては、疲労の為か、在郷軍人に「勝手な行動をとるな!」と叫ばれたためなのか、定かではないが、とにかく足がふらついてしまった。或いは、もしかしたらみつこが行かないでと言っているのか、なかなかその場を離れられなかった。非常に心残りであるのは、K姉弟たちを置いてきたことで、その時は、父に請われるままに後ろ髪をひかれる思いでその場をあとにした。
ソ連軍に蹂躙され、惨殺されたのは500人前後である。その時に助かった何百人かは、複数の小グループで脱出を試みた。Oさんという19歳の方の話によれば、あるグループは80人ほどの集団で行動し、結局日本に帰ってきたのは40人余りであった。また、親や子を失い、途方に暮れた人たちの中にも、自決ではなく、斬りこみをやろうとした人もおり、Hさんのお母さんは斬り込み隊に志願して、うちの母も誘われたが断った。この時の40名の決死隊は半分の20名足らずが生き残ったが、非常にむごい死にざまであったようで、Hさんの母は死ぬまで何もそれについて語らなかった。また、別の方は、私たちの後に50名ほどの集団で興安街を出発し、途中で包囲された挙句、足手まといになる子供ら20名を並べて銃殺したのだという。しかしこの事実も、戦後大分経ってから、この人の亡くなった母の保管していた手記によって明らかになったことであった。母が娘を殺して生き残ったということは、とても公にはできなかったのだ。
先に述べたY教頭先生家族は、葛根廟にてソ連軍に惨殺され、末の男の子(6歳)以外全員が亡くなった。この人は小児麻痺で歩けないので、馬車に乗せられていたが、馬車がひっくり返り下敷きになっていた為に助かった。後に中国の人に拾われて育てられた。この人は6歳であったから、残留孤児として帰国できたが、2歳や3歳の子では氏名年齢すらおぼつかないので、どこの誰か分からない人が多い。Tさんの家族も一人の娘さん以外は皆殺しにされ、娘さんは残留孤児になり、戦後中国の議員に選出され日本と協力しながら緑化運動などに取り組むなど、大変な人格者として尊敬された。
<<逃避行>>
その後、葛根廟をでた我々家族は、新京(長春)へと向かった。父は満語ができたので、道中、現地の人たちに助けられながら、逃げていった。ある村にいたとき、馬賊に捉まって、「止まれ!」といわれた。父が道を教えると、どうやらそれが間違って伝わったようで、馬賊の仲間の一人が避難民に殺されたらしい。やがて、這う這うの体で帰ってきた馬賊はいきり立っていて、父を詰問し、「お前を殺す!」という。部落の人たちが集まってきて、馬賊と話し合う。私たち兄弟は怖くて泣いて、親は目隠しをされて、もう銃殺寸前という時に、部落の60歳くらいのおばあさんが現れ、馬賊を説得しはじめた。「どうか助けてやれんか。」「いや!絶対殺す!ひっこめ!」「あんたが助けるなら、部落のものは皆味方になるぞ。」「だめだ!」「殺すのならいつでもできるだろう。しかし人を助けるというのはなかなかできない。」という感じで粘り強く交渉してくれたおかげで、親は解放された。本当にありがたかった。
<<引き揚げ>>
そして母が一時はぐれるなど、問題はあったが、ソ連軍の軍用列車に便乗して、私たち家族は新京へ向かった。列車には戦車が積んであり、「これでみんな...」と思い、とても恐ろしかった。
新京では父が大工だったので、はじめのうちは父の収入で何とか食いつないでいたが、母が出産して産後の病気に罹り、父が看病していたが、その父も病気になり、結局、兄が物売りなどして一家全員を支えた。しかし、物売りの収入では到底足りず、私らも物乞いなどした。
昭和21年9月24日、葫蘆島から引き揚げ船で日本へ出発。貨物船だったので、それはもうひどい乗り心地で、三歳のころに満州に来てから船に乗ったことはなかったので、かなり酔ってしまった。10月1日に博多に到着。甲板から眼下を見おろすと、魚が泳いでいる。しかしどうやら毒があるから食べられないという話を聞いた。そして防疫検査をして、本土に上陸。帰国後は本籍地の群馬で暮らしていたが、満州帰りというと、都会からきた「都会もん」という扱いで、いじめなどはなかった。皆、とてもよくしてくれた。
質疑応答
Q:現地の人は日本人を恨んでいましたか。
A:私はそうは思いません。葛根病事件の残留孤児が32人いて、そのうち26人が帰国を果たしています。その誰もが皆中国の人に親切に育てられました。彼らが見捨てられなかったことはありがたいことでした。
Q:学生に向けて一言
A:現在、中国人留学生を中心とする戦争を語り継ぐ会というのがあります。一橋大学が中心になって活動をしています。私もそこで取材に応じました。最近は早稲田大学で講演をして、たくさんの学生さんに話を聞いてもらいました。また近く、葛根廟事件をあつかった映画が上映されます。このように若い方が精力的に当時のことを知ろうとしていて、私は光栄であり、かつうれしくもあります。若い方へ、もう二度と戦争はすべきでありません。軍隊は国民を守るものではなく、国家と軍の組織を守るものです。国民を守るのは行政です。有事の際には、軍隊は敵と交戦しなければならないので、国民を守っている暇はありません。国家や軍隊が身を守ってくれると過信することはいけません。
(おわり)
娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」
http://www.sankei.com/premium/news/151108/prm1511080016-n1.html
東京)戦場体験者と車座談議 浅草公会堂で明日まで
http://digital.asahi.com/articles/ASKCS4QR2KCSUTIL029.html?_requesturl=articles/ASKCS4QR2KCSUTIL029.html
これほどむごいことがあってよいのでしょうか。可愛いわが子を自らの手で殺めた母親の気持ち。また無惨に轢き殺された同胞の骸を目の当たりにし、自身も死ぬための列に並ぶ満吉少年の気持ちは如何なるものだったでしょうか。私はこの話を拝聴した日の夜、眼が冴えて寝られませんでした。葛根廟事件について、統計的な死者1000人以上という数字は知っていましたが、生還者の話を聞くと、その死んでいった一人ひとりの死にざま、無念さの一端といった、統計的に処理できない事実を知ることができました。また、体験者の話の中には、簡単に数字化できない「想い」が内在しているということも感じました。このように、生き残った方の話を聞くことができるからこそ、死んでいった多くの方たちについて思いを馳せることができるのです。
第二次世界大戦の死者のうち、軍人よりも民間人の死者が多いという事を見ても分かるように、結局、戦争でむごたらしく殺されるのは女子供なのです。完全武装した軍隊と無抵抗の人々が対峙した場合、どういうことになるか、葛根廟事件ではそれが極めて悲惨な形で示されたのでした。何度も言いますが、大島さんが生き残ったからこそ、我々はこのような体験談を聞くことができ、また、生き残った者の陰で虚しく死んでいった多くの方々のことを知ることができるのです。
我々の責務は、この悲惨な事実を後世に伝えることです。この事件のことを一人でも多くの方に知ってもらいたいと思います。合掌。